2021年2月23日火曜日

「祖母庵とかいて、SOMOAN」

SOMOANを開いて5年になります。すこしこのお店や、このお店で感じたことやら方向性みたいなことを恥ずかしいけど・・・。

どこまで遡ればいいのだろうか、皆さんの、疑問SOMOANの言葉の意味から、20数年前子供が出来て、子育て以外のこととして骨董屋さんめぐりをし始め、浅草仁丹塔の三戸屋さんという人に、「そんなに好きなら、古物の免許を取れば。」といわばそそのかされて始めたのが「おばあちゃん・ち」という屋号です。屋号こそあれ、店も何もない状態ですが、その三戸屋さんにさそわれ古物の市場に行くようになり、子供を背負いながらの市場がよい。そのうちまだ市場に荷物が置いてあると言い出しレンタカーを借りに行って荷物をとりに行ったりしているうちに、祖師谷の小さな借家で今はやりの自宅ショップを開くようになりました。時代の箪笥や皿や布を商っていました。その頃森南海子さんの本で不思議なパッチワークのバッグを使わされていました。上司には不評でした。

古布のパッチワークはまだまだの時代でした。

そのうち会社をやめ骨董屋さんに転進。国分寺の内藤に、「古民具おばあちゃん・ち」を古い民家を改装して、小料理も出せるようにカウンターやら台所にはタイルのカマドを据付たものでした。初めて保健所の許可も取り営業を始めました。雑貨&カフェの業態の走りだったと思います。

ただ早すぎたのかもしれません。まだ骨董屋さんも、素人小料理屋もまだ社会的には認知されていなかったので骨董屋だけになりました。その後引越しを繰り返し、私は、蚤の市だけの骨董屋さん、啓子はほかの事をしていました。

12年前啓子が、国立デパートの中にアンティ―クのお店として祖母庵を開きました。その頃からのお客様もたくさんいらしゃいます。その後1年だけというお約束で大学通りの、SOMOANを開く際、ローマ字で祖母庵を表記してみてコンクリート打ちっぱなしの店内にぴったりだったので。その頃からジャンクの傾向が強くなりました。

それからここにブロカンテとカフェの店として5年前にオープンしました。私は、蚤の市の骨董屋さんからカフェのマスターになりました。

 マスターのつぶやき、ひとりのつぶやきはいなくなり、一つのつぶやきは大流行ですが、これは普通のつぶやきと聞き流してください。

白髪の多い顔になってくると、人はなぜか自然や植物や鉱物が好きになったりします。社会の中を動き回る人であるという自覚が日に日に薄れていく私を含めた同輩にとって、そのような場所は、リングから降りたボクサーになってはいけない。と思うようにしています。私達の先輩の作った、「芸術という名のリング」(芸術という言葉とある意味同一ではないがある意味同一)は、無限に広い。このリングに上がるのは、資格もなければ経験も必要ありませんただ「初めて見ようかな、」です。

最大のルールは、「ほめる」その一言です。これ以上話すと執拗になってしまい苦痛を与えることになり興味のある人限定で。

2010512

2021年2月16日火曜日

somoanらしい事を考えて、このブログを再起動したいなぁ。

 骨董市の仕事にすっかり溺れてなにか忘れてしまっていたのでは、と反省。

フェイスブックでは、気軽さもあって日々更新なのにここには、月一度予定を書き込みに訪れるのみの体たらく。少しでも興味のある事を書くことができたらと、願っています。


最初に戻ってsomoanの生い立ちから、

デザイン会社に勤めていた私が何ができるわけでもなく、ただ独立したいという思いから、やめてしまい。家内がやっていた骨董の仕事を手伝うようにして、骨董の道に。

国分寺に昔八百屋さんがやっていたお店を借りてからのスタートです。

古民具おばあちゃん・ち というおみせです。

カミさんが月に6回ある市場で仕入れてきて、最初の頃は、店売りだけでした。

たくさんのお客様に守られて、保育園児の長女とよちよち歩きの長男を大きくしていただきました。

軌道に乗り始めて、骨董市へ出てみないかというお誘いで東郷神社の骨董市にださせてもらいました。お店と違ったお客様に面食らいながら少しずつ初めての商人となって、骨董のことも知らず、商いもわからない全くの素人でした。かみさんが競り落とした値段も知らず、売るという荒業をやっていました。まぁ時代が良かったということなのでしょう。