2023年9月20日水曜日

秋から私が前立腺肥大からおしっこが

 おしっこが変で泌尿器科のかかり前立腺の薬を服用、今度は尿漏れするようになった。尿漏れパットをしていましたが身体が調子悪く食事もままならず。飲み物だけの生活に。どうにもならないほどになり。結局は救急入院、腎不全と心不全という診断で入院同時に家内の入院さきも探してもらい入院ということになりました。3月以上入院してどうにか退院後リハビリ療養じっと最小限の散歩ぐらい。家内の入院先からの電話で家内の認知機能がだいぶ落ち医師のことも解らないようになったと連絡がありました。後日面会した時は私が誰だか解らないようです。私は入院時から尿道にバルーンが入り退院時にもつけたまです。依然として腎臓不全は変わらずこのままいけば人工透析になると脅かされています。


家内こと私のこと

 レビー特有の症状が現れだして、幻視よくゆうところの虫が見えるとかが始まり。被害妄想から私がお金を取るとか、私が泥棒とか、誤認妄想が強くなる。だんだん病院への通院も嫌がるようにそのころには脳内科から精神科の先生に通っていましたが、早い段階で入院を勧められぞっとしました。通院もままならず。訪問診療にお願いしました。要介護2になりデイサービスに行くようになりましたが、それもままならずお休みすることが多くなりました。介護の日々です。ベットべ寝ている時に手を出してぶつようになったのでマットレスを敷いて床で寝るようになりました。誤認妄想が強いときに起きるようで強盗のように見える時は、ぶってくるようです。いつもがそうではなく。週のうち一度ぐらいでした。電話も取らずに電話のように話をするように書き留めたり誰かが来ると言ったり、その人の指示で出かけたり近所をふらついてパトカーの世話になったり。夜中に来客対応して朝のテーブルには茶たくに湯吞お茶が入ったのが何客かそんな日が多くなりました。

2023年9月19日火曜日

Facebookのページへの投稿が予想に反して反響がありました。

 あまりにもほったからかしのブログのも私や家内の近況を書こうと思って開いてみました。蚤の市に細々と出ていあましたが家内の様子がおかしくなり、途中で帰ったりしていて。近くの病院に行って見てもらっていましたが、最初のうちはお通じがなく便秘薬を処方箋されていましたが。容態は変わらずすこしづつメンタル面におかしな面が見えてきて同じ病院の精神科にかかり。脳内科というとこで、レビー小体型認知症の可能性があるということで。検査のできる立川病院へ行き何度か放射性物質の注射の後MRI`の検査によって頭頂部と海馬に問題がある。レビー小体型認知症とパーキンソン病と診断がおりました。

2021年2月23日火曜日

「祖母庵とかいて、SOMOAN」

SOMOANを開いて5年になります。すこしこのお店や、このお店で感じたことやら方向性みたいなことを恥ずかしいけど・・・。

どこまで遡ればいいのだろうか、皆さんの、疑問SOMOANの言葉の意味から、20数年前子供が出来て、子育て以外のこととして骨董屋さんめぐりをし始め、浅草仁丹塔の三戸屋さんという人に、「そんなに好きなら、古物の免許を取れば。」といわばそそのかされて始めたのが「おばあちゃん・ち」という屋号です。屋号こそあれ、店も何もない状態ですが、その三戸屋さんにさそわれ古物の市場に行くようになり、子供を背負いながらの市場がよい。そのうちまだ市場に荷物が置いてあると言い出しレンタカーを借りに行って荷物をとりに行ったりしているうちに、祖師谷の小さな借家で今はやりの自宅ショップを開くようになりました。時代の箪笥や皿や布を商っていました。その頃森南海子さんの本で不思議なパッチワークのバッグを使わされていました。上司には不評でした。

古布のパッチワークはまだまだの時代でした。

そのうち会社をやめ骨董屋さんに転進。国分寺の内藤に、「古民具おばあちゃん・ち」を古い民家を改装して、小料理も出せるようにカウンターやら台所にはタイルのカマドを据付たものでした。初めて保健所の許可も取り営業を始めました。雑貨&カフェの業態の走りだったと思います。

ただ早すぎたのかもしれません。まだ骨董屋さんも、素人小料理屋もまだ社会的には認知されていなかったので骨董屋だけになりました。その後引越しを繰り返し、私は、蚤の市だけの骨董屋さん、啓子はほかの事をしていました。

12年前啓子が、国立デパートの中にアンティ―クのお店として祖母庵を開きました。その頃からのお客様もたくさんいらしゃいます。その後1年だけというお約束で大学通りの、SOMOANを開く際、ローマ字で祖母庵を表記してみてコンクリート打ちっぱなしの店内にぴったりだったので。その頃からジャンクの傾向が強くなりました。

それからここにブロカンテとカフェの店として5年前にオープンしました。私は、蚤の市の骨董屋さんからカフェのマスターになりました。

 マスターのつぶやき、ひとりのつぶやきはいなくなり、一つのつぶやきは大流行ですが、これは普通のつぶやきと聞き流してください。

白髪の多い顔になってくると、人はなぜか自然や植物や鉱物が好きになったりします。社会の中を動き回る人であるという自覚が日に日に薄れていく私を含めた同輩にとって、そのような場所は、リングから降りたボクサーになってはいけない。と思うようにしています。私達の先輩の作った、「芸術という名のリング」(芸術という言葉とある意味同一ではないがある意味同一)は、無限に広い。このリングに上がるのは、資格もなければ経験も必要ありませんただ「初めて見ようかな、」です。

最大のルールは、「ほめる」その一言です。これ以上話すと執拗になってしまい苦痛を与えることになり興味のある人限定で。

2010512

2021年2月16日火曜日

somoanらしい事を考えて、このブログを再起動したいなぁ。

 骨董市の仕事にすっかり溺れてなにか忘れてしまっていたのでは、と反省。

フェイスブックでは、気軽さもあって日々更新なのにここには、月一度予定を書き込みに訪れるのみの体たらく。少しでも興味のある事を書くことができたらと、願っています。


最初に戻ってsomoanの生い立ちから、

デザイン会社に勤めていた私が何ができるわけでもなく、ただ独立したいという思いから、やめてしまい。家内がやっていた骨董の仕事を手伝うようにして、骨董の道に。

国分寺に昔八百屋さんがやっていたお店を借りてからのスタートです。

古民具おばあちゃん・ち というおみせです。

カミさんが月に6回ある市場で仕入れてきて、最初の頃は、店売りだけでした。

たくさんのお客様に守られて、保育園児の長女とよちよち歩きの長男を大きくしていただきました。

軌道に乗り始めて、骨董市へ出てみないかというお誘いで東郷神社の骨董市にださせてもらいました。お店と違ったお客様に面食らいながら少しずつ初めての商人となって、骨董のことも知らず、商いもわからない全くの素人でした。かみさんが競り落とした値段も知らず、売るという荒業をやっていました。まぁ時代が良かったということなのでしょう。



2021年1月6日水曜日

一月の予定です。

 新しい年が始まりましたね。

家内の不調がコロナに追い打ちになり。

まだ予定をたてられずにおります。


2020年12月13日日曜日

12月の予定です。

 今年はコロナに押し切られました。

12月は、家内の不調もあり、出店はなく、来年こそ。